2016/01/06のいばや通信が素晴らしすぎる
いつも僕の思考に衝撃を与えてくれるいばや通信。
感動ではない感銘、いや言葉では表しづらい何かを受けました。
「わたり文庫」、「わたり食堂(仮)」と言葉ではうまく言い表せない何かが始まりそうな予感がします。
10日、11日は予定があるので参加しにはいけませんが、第二回があったらぜひ参加したい!
もちろん作る方で。
誰かに食べてもらえるのは嬉しい。
「美味しい」なんて言ってもらえたらもっと嬉しい。
作る喜びはこの2つに集約されていると思う。
「サービスを受ける側が金を払うから循環が起こらない(交換になってしまう)のだ。だからこそ、サービスを受ける側は永遠に無料で、サービスを与える側が『自腹を切ってでも何かを与えるシステム(金を払ってでもやりたい仕事)』があってもいいじゃないか」
自分が作りたいから作るものもあるけど、
(あなたに又は誰かに)喜んで欲しいから作る
というモノの方がはるかに多いし、そのほうがモチベーションが上がる。
そして、誰かに何かを与えたいと思っている自分自身を発見し、ちょっと嬉しく思う。
自分はまだ完全に毒されちゃいない、まだ優しさが残っているじゃないかと・・・
失敗とは何だろうか。いつまで傍観者でいるつもりなのだろうか。いつまで周囲の顔色を伺い続けて、いつまで、傷つくことを恐れているつもりなのだろうか。喜びは、多分、成功のなかにだけあるものではない。失敗のなかにも喜びはあり、悲しみのなかにも、苦しみのなかにも喜びはある。振り返って見た時に、輝きを帯びた思い出になるのは「不器用でも、無様でも、一生懸命に生きた記憶」だ。
これにはガツンとくるものがあります。
自分の人生の傍観者ではいたくない、傷つくこと、いや傷ついた痛みを感じないふりをするのはもうやめたい。
痛いと叫んでもいい、泣いてもいい。
でも、痛みと向き合うこと、その痛みの根本をよく見ること
きっと僕自身まだまだ体内から吐き出せない何かがあり、それを誰かと語りたいと思っている。
その誰かはわからないけど、自分自身だけでは飲み込むことしかできない。
そんなことを僕は感じました。